私をゆるす

 三十歳になるくらいのころから、学生時代からの友人と疎遠になったり絶交状態になったりすることが相次いだ。
きわめつけに東日本大震災から二年ぐらいのあいだに、もっとも精神的に距離が近いと思っていた友人との関係がだめになり、笑ってしまうほど短期間とはいえ同居した相手とも別れた。今となっては記憶も曖昧なのだが、心が穏やかでいられるときがほとんどないような二年間だった。
 それから更に数年経って今に至るのだけれど、最近になって「あのころのことは、全部どうしようもなかったことだったんだ」と思えるようになってきた。それまでは「私は何も悪くない、百パーセント正しかった」ということを証明したくて躍起になったり、反対に「何もかも私が悪いんだ、私のせいなんだ」と思い込んでしまおうとしたり、そういうふうにしか思考が働かなかった。誰のせいでもない、どちらが悪いとか、どっちが加害者でどっちが被害者だとかそういう話ではない、と頭ではわかっていても、それをのみこむことは苦しくてできなかった。
 
 元同居人に対してはとてもひどいやり方で幼さをぶつけてしまって、申し訳なかったな、とこのごろ素直に思う。
 元同居人、というより「彼といっしょにいたときの私」に激しい嫌悪感があり、いつかはその「私」のことも許せるようになる、だなんて想像するだけでもゾッとして、このさきも和解なんかしない、したくない、とずっと思っていたのだけれど、このごろはそういう頑なさを維持することにも疲れてきたというか、なんだか、もうどうでもいいや、みたいな気分になってきた。
 もしかしたらこれが「許す」ということ(への第一歩的な何か)なんだろうか、と思ったりする。
 そうならば、何かを許すということは、その「許した何か」とまた以前のようにいっしょにいられるようになる、ということとはまったく違うことなのだな、と今更ながらに思った。「私」を許したとき「私」は手を離れて、そのことを悲しいとすら思わないだろう。

 ようやく、こういうことも少しずつ書けるようになってきたけれど、二十年ちかく付き合った友人のことはやはり何も書く気になれない。死ぬまで書きたくない、とも今は思う。

 赦せよと請うことなかれ赦すとはひまわりの花の枯れるさびしさ(松実啓子)
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