痛覚エッセイ>「エトランゼ」

 六義園でお花見したり、アイスショーを観に行ったり、社交ダンスの無料体験したりと遊んでばっかりいます。
 昨日はWilhelminaの犬塚さん、穂崎ちゃんと一緒に乗馬をやってきまして、全身がバッキバキです……。運動不足が深刻すぎる。小説を書くには体力も重要! 体力づくりは必須! というわけで、ミーナの活動項目に「運動」が加わりました。次回はボルダリングに挑戦する予定です!
 ……三人とも書くものの方向性も書き方もバラバラだし、三人集まって運動しようとしているし、ミーナってほんとうにおかしな集まりだなあ、としみじみ思うわけですが、それでも小説の話をしていていちばん「うんうん、そうだよね!」って思えるのは犬塚さんと穂崎ちゃんなんですよね。あと刺激ももらえる。ありがたいことです。

 さて、三年ぶりの痛エッセイです。「エトランゼ」という言葉は一度使いたかったので、今回タイトルにできて嬉しいです。
 すっかり春だというのに冬のさなかの話で恐縮ですが……前回エントリにも書いたけど2月の記憶はわりとぼんやりしていて、それをようやくこうして言語化できたのでちょっとホッとしています。去年の夏から年が明けるまでのことももやもやしててよく思い出せないんだけど、そのうち言葉にして自分のなかで決着がつけられるといいなーと思っています。
 コミティアの配置もとっくに出ているのでそちらのお知らせもしなければならないのですが、告知は次の記事でまとめてキチッとやることにして、ここには別のことを。今回更新したテキストにうまく織り込めずに削らざるを得なかった、もうひとつの挫折についての走り書きを往生際悪く貼っておきます。

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 呪いをとく、短歌(正確にはBL短歌)は続ける、と宣言した途端に何もいえなくなった。
 五七五七七になりそうだな、という感じの「種」は、なくはない。それをとりあえず三十一文字にすることは、できるようになった。そこで止まる。これは詩の言葉だろうか? そう思ってしまうと、身動きが出来なくなる。
 いじり回していると、幾つかパターンを思いつく。でもどれがいいのかわからない。良くないと思って、直して、でも直したものが最初より良くなっているのか、その判断もおぼつかない。つまり何もかもどうしたらよいのかわからない。誰かに聞かなければわからない。時間をかけて言葉を捏ねれば捏ねるほど、何が何だかわからなくなっていく。
 自分のしていることは完全に間違っている、という思いだけが強くなっていく。
  散文を書いていてそんなふうに思うことはない。自分の文章の何がまずいのか、どこを直せばいいのかは、初稿を書いているときにはわからなくても、推敲していれば見える。それが自分だけのものだとしても、基準がある。

 命じられたわけでも頼まれたわけでもなく、ただ、日々あふれてくるものを受け止めたいと思ったとき、私は散文という器を使う。
 五七五七七という定型を、そういう用途で使いたいとは、どうしても思えないのだった。それはあなたがほんとうには短歌を必要としていないのだ、と心のなかで誰かがいい、私は、そうです、と答える。

 向き不向きというものはある。

 早く新しい部屋に引越したいと毎日思う。
 そこで小説を書くのだ。

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 短歌について思うところは日々変わっているのですが、今はこのときほど悲観的ではないかな。さんざん遊んでだいぶ元気になったので。共有結晶も頑張りたいです。
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